昭和45年7月22日 朝の御理解  【入力者:岡村和一郎】

御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」


 「かわいいかわいいと思うてうろたえると」と、こうおっしゃっておられる。えー、かわいくないという、ね、ほっておくような気ということは、えー、かわいくないというのではない。ただ、かわいいかわいいとこう、かわいいかわいいと思うてはいけないけれども、かわいいと思うて、という、ね、二つもかわいいかわいいと。もう、かわいそうでかわいそうでというのじゃない。ね。
 ただ、かわいいかわいいという、かわいいと思うて。だから、いかにかわいいと思う心でも、過ぎたら必ずうろたえる。ね。「ままよと思うてほってような気」というのは、これは冷たい心という、意味ではない。
 ね、やはり、かわいいと思うからこそ、もう、ほっておくような気にある。ですから、まあ、かわいいかわいいというような心は、ね、まあいうなら、「過ぎたるは及ばざるが如し」といったような結果になる感じがね、私はこの、ここんところを頂かしてもらうのにあたって、一番、あの、頭にひらめいてまいりましたのは、久留米の初代の石橋先生のご信心であります。
 えー、三代金光様が、久留米の石橋先生を評して、えー、「久留米の石橋さんこそ、真の人でしょうなあ」とおっしゃったと。「出すぎもせず、引っ込みすぎもせず」というふうに言われておられます。ね。「出すぎもせず、引っ込みすぎもせず」、いつもちょうどいいところを通っておられるというのである。
 そのちょうどいいというそれが、いわゆる真の人でしょうと、こう言うておられる、その真ということがです、私ここで、えー、感じられますですね。いわゆる、真をもって成就せぬことないという真とはね、あの、かわいいかわいいという心でもなからなければ、冷たい心でもない。たぎるような心でもなかなければ、(?)冷たい方でもないということが、分かりますですね。
 「出すぎもせん、引っ込みすぎもせん」といったような心。ここで、いわゆる、かわいいかわいいと思うてというのが、まあ、かわいいと思うてという、二つも「かわいいかわいい」と重なるようなことでは、必ずうろたえる。ね。まあこれは、えー、信心というか、あー、とりわけおかげを受けなければならない、そのおかげの、その(きー、きり?)を教えておられるんですよね。
 同時に、私は、んー、真と、いったい真心というものが、そのー、おー、どういうものかと。神様に通う真、真心というのはどういうものかといったような、あーところを教えておられると思いますね。
 親切でも、やはり、過ぎたらもうそれは親切じゃないです。いかに真心で私はこんなに思うとるというても、「かわいいかわいい」と二つもついたら、もうそれは真心じゃないです。まあ今日はそんなふうに、ここから感じ取らして頂きますよね。(咳)
 ところが実際は、やはりそれが、自分の子供であるば(分かって?)みるとです、ね、えーその思いは、やはりそこに募るのであり、えーやはり、かわいいかわいいという心が、あー、起こります。
 そこでですね、やっぱり、これはまだ自分の思いが足りんのだという思いと、これは自分の思いが過ぎるのだというところを、いつも心をかけておかなければならんと思う。ね。いわゆるその、いうならば真、真心とか、ね、神様に通う心というのは、いうならバランスの取れた心だと、私思うんですね。
 ある先生のお話の中に、自分の子供が病気をした時、一晩中ご神前に額づいてご祈念をなさった。そして、ふと思うたのは、これがもし、ご信者の(子?)であった時に、お取次させて頂く時に、果たしてこのように熱心になれるだろうかと思うて、相済まんと思うたという話を聞いたことがある。まあ赤裸々なこれお取次者の気持ちなんですね。ね。
 だからそういう、例えば、その、心ではいけないなと気付かれたように、な、確かにそういうそれではいけんのです。ね。神様にはそういう心では、一生懸命一晩中拝んだから、なら聞いてくださるかというと、そうではなくてです、例えば、一晩中拝むもよかろうが、一晩中拝むような心が、なら赤の他人の、おー、子供である場合でも、そのような心。そういう心が、私は、えー、神様に通う(んだよね?)。ね。
 うーん、まだ、あー、北京から引き揚げまして、間もなくの頃、御本部月参りをさせて頂いておりました頃に、うー、御本部から帰ってまいりましたら、えー、愛子と泰子が(甘いとこ出してね?)、二人とも私を「お父ちゃま、お父ちゃま」とこう言うて、二人ともヨチヨチ、まあようやく歩く頃でした。
 帰って庭に立って「ただいまあ」と言うたら、愛子と泰子が一緒に「父ちゃまー」て言うて、やって来たんです、(のっと?)あすこ縁のところの入口のところに。私はどっちに手を出、さいだそうかと思うて、ちょっと迷うた。ね。そしてやっぱり自分の子の愛子の方に手がいこうとした時に、私、泰子を抱いた。
 私はそういう心だと思うですね。これは人間ですから、親子ですから、やはりなら、子供と姪になるわけですけど、それくらいに違う。けれども、そこんところにですね、なら片一方を抑えて、片一方に手を出すというような、そういう心がバランスの取れた心とまではいかんでも、そういう心であらなければならんという精進だと思いますね。
 私、自分の子供を考えないわけではございません。身内のことを考えないわけではないですけども、だんだんそれから信心もいくらかは進展、し、まあ進んでまいりましたち自分で思うですけれどもです、わが子だから、一晩中ご神前に額づくということもなからなければ、というて、ならご信者さんだからというて、一晩中額づくような、そういう熱心さもありません。
 ただ取次者としてのですね、取次者、取次者としての、おー、思いというものを、いつもそこにバランスの取れた心で、神様に願うだけです。こりゃ自分で、最、ほんとに自分でもだんだんおかげを頂いておるなあと思います。ね。
 これは私だけのことではありません。えーこの四十八節は、ただ、あー、一般に対するところの、いわゆるおかげの機微といったようなものを教えておられますがね。これはまあ私は、取次者としての、ま、精進といいますか、あり方がこうあらなければならないといったように感じますし、また、久留米の初代の「出すぎもせず、引っ込みすぎもせず」、それを三代金光様は、「真の人」だと評されたという、その真の人である真ということがです、そんなもんだと。
 あーっち思う親切がおる、もう、たぎるごとある親切を持ってござる。ね、しすぎる。ね。いわゆる好かれて迷惑である。かえって迷惑を相手がするような親切は、神様には通いません。ね。
 出すぎもせん、引っ込みすぎもせん、という、そういうようなところをですね、えー、だんだんけいこさせて頂くといいですねえ。いわゆるそれには何と言うてもです、神様の、いわば間違いなさというか、神様の心というか、神愛というか、そういう神様の働きというのを、いつも日々の信心生活の中から、「神様とはこういうお方だ」ということをです、把握していきよらんと、やはりやりそこなうのですね。
 昨夜、夜のご祈念に、もう時間に、時間になっとるところ、ちょうど(ととともどるところで?)。えー、吉井の熊谷さんがお参りになった。(で、お届けをされた後に、そう?)はぉー新聞紙に包んだものをお供えされますのに、ちょっとこうお取次させて頂いて、持たせて頂いたらそれがぬくいんです。
 そして何回もポンポンこう、んーちょうど、あのー、ぅあー、ほっこり焼き、ね、(食べ物の?)ほっこり焼きのような匂いがプンプンしますもん。「これは何ですか」ち言うてから、私は、んー取次さして頂きながら言うたら、「先生これはとうもろこしでございます。とうきびです」。それが今、吉井ではとてもはやりましてから、もう普通行ったっちゃ買い出しませんち。とうもろこしを何か塩水に浸けてそれをこんがり焼いてある。ね。
 今日はちょうどその焼けたところへ、私が行き合わせましたから、「今日は先生に一本あがって頂こうと思うて買うて来ました」と言うて、(くしをこげな大きなっとうちいう塩の?)えー、それがまだ熱いんです。ね。
 だから、とにかく、熊谷さんの思いとしては、えーまあ熱いところを焼きたてを一つ、親先生にあがって頂こうと思っての(しとちゃー?)、もうご祈念の時間でしたけども、「そんならちょっと頂こうか」ち言うてから、私は御結界で開いて、開いたら、もうほんとに、もう熱いようなとうもろこしが(出て?)まいりましたから、これも(ただ?)皆切ってから、ご参拝の人方たちも、「とにかくご祈念前に頂きましょうや」ち言うて、じゃあ皆さんにも頂いてもらい、私も一本そのここで、御結界でかじって頂いたんですよ。おかしなことですかな。
 御結界で御結界に座っておられる先生が、とうもろこしかじって、だから「先生、写真にちょっと写しとかないけませんな」て言うてから、(?)さんが言われた。ね。頂き終わってから、あーですから十分ぐらい遅くなりました。ね。
 それからご祈念さして頂いて、えー、んー、そのことを御理解に聞いて頂いたんです。ああ行儀の悪い先生だな、御結界で信者が、あーそのお供えさして頂いたのを、むしゃむしゃ食べとる。ね。けれども私は思うんですよね。ね。なるほど、熊谷さんは、うぉーお供えをなさいました。お取次を頂いて、御結界でこうやってお供えなさいました。
 それは、あの、神様にお供えをさなるのじゃなくて、やはり先生にお供えを(しなさる?)先生に食べて頂こうという思いであり、また真心なのだ。だから私はここで食べることの方が、ほんとのよいお取次ができると、私は思った。こりゃ冷とうなってから、ならご祈念が頂いてから、すぐ頂こうっというて、冷えて頂いたんでは、せっかくの真心が蔭ると思うた。
 少しぐらいご祈念の時間をずらしてからでも、熱いところを頂いて、こりゃおいしいと言うて頂いた方が、熊谷さんも喜ばれるだろう、神様にも、それの方が通じる、通うと思うた。ね。神様に通うということはね、そういうことなんですよ。ね。
 今日の御理解もです、「あら、かわいいかわいい」と二つも思うたら、よけい神様に通じようごとあるけれども、そのかわいいかわいいを二つも言ったら、おかげにはならんと言うておられる。むしろ、子供が言うことを聞かん時、もう知らん、知らんぞほっとけというような心を、で神様にすがってやれと、こうおっしゃるわけです。
 子供のことですから、そげん冷淡になりきれるはずはありません。けれども、どうしても親子の情というものがそこに出てまいりまして、過ぎるから、ほっておくような気と言うておられる。ほっておけというのじゃあない。ほっておくような気になったって、やはりいい加減は思う、いわゆるかわいいぐらいのことはある。かわいいかわいいがいけんのであるって。ね。
 かわいいという心。それがいうならちょうど、ほっておくような心ていうて、ちょうどいいぐらい。だから、冷たいという心でもなからなければ、ね、熱いような心でもないということ。ね。そういう心が神様へ通う。たまにはそれが、なら演出しなければばならないような場合もある。ね。私が、泰子と愛子の場合を申しましたようなことです。ね。
 いわゆる、久留米の石橋先生の、出すぎもせず、しなさらなければ、引っ込みすぎもなさらないという心。そういう心が、真だからこそ神様に通う。ね。だからそういうことがです、だんだんできるようになる。そういう思いが、いうなら偏らない心ができるようになるということもです、神様の間違いなさが分からなければです、ね、ただ神様の心が分からなければ、そういうことはできません。ね。
 例えば、私がここでとうきびをむしゃむしゃ頂くといったようなことはできません。神様が分からなければ。ね、神様はどういうことがお好きなのか、神様はどういう心の状態がお好きなのかということが分からなければ、そんなことはできません。だから夕べも申しました。これが、ここで、なら私がむしゃむしゃ頂くという、とうきびを頂いておるが、これが私以外の若先生が、「これはいかんもんの」と言うて申しました。私でできる芸当なのだ、いわば。
 そうしましたらね、あのー、ご神前に出らして頂いてから、あーすぐ頂きましたことがね、あのー、えー、孫悟空(とんやら?)仏様の話ですねえ。孫悟空がもう、あっという間に千里の道も駆けれるほどしの術を知っておるというのである。その仏様との問答のところ、私はこういう力を持っておりますよ。ね、こういう神通力を自分は持っておるんだと、言うて、仏様に自慢をした。
 そして、私がね、あっという間に、その、まあこの世の果てとまで言う、そこんところへ飛んで行って、そこへ私が行った、その行った印を付けてくると、いうわけなんです。うん。ただそういう器用なことができるかと、仏様が言われ、そして飛んで帰って得意になって、あのーおー、あすこに行って、(?)私があっという間に向こうの方に行って、その行ってきた印を書いてきたと、まあ言うた時に、仏様が「そうか」と言うて、ご自分の手を開かれた。開かれたら、仏様の手のひらの中に、孫悟空が書いた字がここに書いてあったというんです。ね。
 お前があっという間に、千里の道も駆けて、向こうに飛んだ、そこだへもやはり私の思いの中にあるんだと、教えられたわけです。自分の手のひらの中にあったんだ。ね。
 例えば、私が御結界に例えばおろうが、ね、下に下がっておろうが、それはお便所の中におろうが、ね、そこにいつも頂いておる神様は、同じ神様を頂いておれるほどしの、いうならば信心ができなければ、なら御結界で私が、信者の真心だからと言うて、むしゃむしゃ食べるようなことは、まあいかにも私がそうして、まあ上達、信心が上達しておるようにあるけれどもです、そういうようなことを私は教えられた気がいたしました、昨日。ね。
 いわゆる、ね、神様の心というのはね、例えば、なら私ここへ、えー、一つ、あー熊谷さんのお供えをです、はあそりゃああんたの真心をお取次さして頂きましょうと、お鉢に入れて、お三方にのせて、神様にお供えをして、ね、そして、これを「氏子の真心でございます」と言うて、お供えをするということなら、誰でも合点がいって、「はあ、立派だなあ。あの先生は立派な先生だ」ということになるかもしれん。そしてそれを、ご祈念が済んでから、「さあ皆さん、一切れ頂きなさい。私も頂こう」。時には、もうすでに冷たくなって、美味しくなかったと。
 しかし、それがほんとのことのようにあってもですね、それでは、いや、神様には通わない。いかにもかわいいかわいいとたぎるような思いであれば、神様へ通ずるようであって、通じないということ。ね。いや、むしろ、私は熊谷さんの(ごほんの?)ぅおー、例えば、とうきびの真心というものをです、私は見事に昨日はお取次させて頂いたと、自分で思うのです。ね。
 神様へ通わして頂く一つのキリとでも申しますか、ねえ。いわゆる信心さして頂く者の、まあ心得え、心がけとしてです、「過ぎたるは及ばないが如し」であるというようなことをです、そんな私だん、もう毎日毎日お参りしよるけん、こりゃお参り過ぎようとじゃなかじゃろうかっちいうごたるふうな取り方をなさっちゃ、困りますけどね。
 私ゃもう朝も晩も参りよるけん、なら一遍ぐらいにしとく方がちょうどよかっ(つう?)なかじゃろうかというようなことじゃないですよね。それは皆さんがね、ほんとの神様を分かろうとなさっての、その修行でしょうが。ね。もっともっと神様を、近くに感じようとなさるためのご修行でしょうが。だから、それとこれとは違いますよね。ね。
 自分の子供が、そりゃとっさに病気をしたとか、苦しむ時にですたい、ね、慌てふたむき、ふためくようなことであってはいけない。むしろそういう時は、冷淡だと思われるくらいに、ね、ほっておけれるくらいな信心を、私、日頃身につけておきたい。ね。それでもいい加減、やはりかわいいかわいいとは言わんでも、かわいい心は心ん中にあるのだ。ね。
 隣の子供が具合が悪い、(そなら?)お願いしてやろうかち。というようにですね、ような私は心でもいけない。ならそれを、自分の子供が具合がもし悪かったならと、自分の身にひっきょうしてみるくらいな、私は親切はいる。
 それでいて、たいていいい加減なバランスの取れたものになってくるのです。ね。私は真とは、いわゆるバランスの取れた心、真の人とは、いわゆるバランスの取れた人。ね。温か過ぎる人でもなからなければ、冷た過ぎる人でもない。ね。そういう人の心から、自ずと出てくる心を、私は、まこ、真心だというふうに思う。その真心が神様に通うのだと。ね。
 過ぎたからというて通うのではない。というて、それが冷たい心であったら、なおさら通わない。ね。そのへんのことのキリを、この四十八節は教えておられると思います。どうぞ、めいめいの信心のところでも考えてみてください。